【福井7人の工芸サムライとは】
福井にある7つの国指定伝統的工芸品の若手職人グループです。
福井とは?
越前漆器の起こりは、約1500年の昔にさかのぼるといわれています。古墳時代の末期にあたる6世紀。第26代継体天皇がまだ皇子のころ、こわれた冠の修理を片山集落(現在の福井県鯖江市片山町)の塗師に命じられました。 塗師は、冠を漆で修理するとともに黒塗りの椀を献上したところ、皇子はその見事なできばえにいたく感動し、片山集落で漆器づくりを行うよう奨励しました。これが今日の越前漆器の始まりと伝えられています。 また、越前には古くからたくさんの漆かきがいました。漆かきとは、漆の木にかき傷をつけながら漆液を採集する職人のことで、最盛期には全国の漆かきの半数を占めたといわれています。日光東照宮を建てるとき、徳川幕府は大量の漆液の採集を越前に命じたとか。越前の漆かきが、どんなに高く評価されていたかが分かります。こうした漆かきの存在も越前漆器の産地形成に大きな役割を果たしています。
全国に数ある和紙産地の中でも、1500年という長い歴史と、最高の品質と技術を誇る越前和紙。その発祥について、伝説が伝えられています。 ― 継体天皇が男大迹王(おおとのおう)として、まだ、この越前に潜龍されておられたころ、 岡太川の川上の宮が谷というところに忽然として美しいお姫様が現れました。 「この村里は谷間であって、田畑が少なく、生計をたてるのにはむずかしいであろうが、清らかな谷水に恵まれているので、紙を漉けばよいであろう」と、自ら上衣を脱いで竿にかけ、紙漉きの技をねんごろに教えられたといいます。習いおえた里人は非常に喜び、お名前をお尋ねすると、 「 岡太川の川上に住むもの」と答えただけで、消えてしまいました。それから後は、 里人はこの女神を川上御前(かわかみごぜん)とあがめ奉り、 岡太神社を建ててお祀りし、その教えに背くことなく紙漉きの業を伝えて今日に至っています。
越前焼は、今から約850年前の平安時代末期に始まりました。 高温焼成で茶褐色に焼き締まった越前焼は、上薬を使わなくても水を通さない丈夫な焼き物と言う特長から、主に水がめ(水や穀物用)や、すり鉢などの日用雑器を中心に生産していました。 そして、室町時代後期には北前船によって北は北海道、南は鳥取県まで運ばれ、越前焼は北陸最大の窯業産地として発展したのです。 しかし、明治以降、日本全体の近代化が進むに連れ、水がめなどの需要がなくなり、越前焼は衰退の危機を向かえました。 その後、越前焼の窯址の発掘調査が研究者によって行われ、文化的研究成果から越前焼の歴史的評価がなされ、越前焼は復興を果たしました。そして、日本六古窯のひとつとして全国に知られるようになり、40年代には越前陶芸村が建設され、昭和61年には国より伝統工芸品として指定を受け、現在の越前焼へと発展して参りました。 当組合では、そうした歴史を誇りに、越前焼ならではの特徴を生かした商品をこれまで作り上げてきました。こうした越前焼は、個人のお客様市場から業務用市場まで、幅広く拡大しております。特に県内の飲食店が謳う「地産地消」の効果から、県産
700年の伝統。それは一人の刀匠からはじまりました。 「越前打刃物」は、1337年(南北朝時代)京都の刀匠千代鶴国安が刀剣制作に適した地を求め、府中(現越前市)に来住し、そのかたわら近郷の農民のために鎌を作ったことから始まったといわれています。その後、江戸時代には福井藩の保護政策により、株仲間が組織され、その技術が受け継がれて発展してきました。販路も当初は、漆かき職人が漆かきのため全国に出かける時、刃物を売り歩いたことから始まり全国に及びました。現在の越前打刃物は、日本古来の火づくり鍛造技術、手仕上を守りながら、調理用の包丁、農業・園芸用の鎌、鉈(なた)、苅込はさみ、鍬(くわ)を主製品として造り続けています
江戸時代後期より製造されており、ケヤキ、キリ等の木材を独自の指物技術により加工した後、漆塗りを施し、鉄製金具で装飾する重厚な製品造りを行っています。
若狭塗は、慶長(けいちょう)年間(1596~1614年)、小浜の豪商(ごうしょう)組屋六郎佐衛門が国外より入手した漆塗(うるしぬり)の盆(ぼん)を小浜藩主(はんしゅ)酒井忠勝(さかいただかつ)に献上(けんじょう)したものをもとに、当時城下の漆塗御用職人(ごようしょくにん)であった松浦三十郎(まつうらさんじゅうろう)〔松浦与兵衛(よへえ)義則(よしのり)〕がこれを模倣(もほう)して制作したことに始まります。 (彼は前藩主京極忠高(きょうごくただたか)の家来でしたが、京極氏が松江に移ったのを機会に武士をやめ小浜にとどまりました。15歳のころだそうです。) それから改良工夫を重ね、若狭の海底の美しさを表そうと海底の模様(もよう)をデザイン化し、「菊塵塗(きくじんぬり)」という技法を創(つく)りだしました。 さらに、その門人が海底の貝殻(かいがら)と白砂の美しい景観(けいかん)を表現した「磯草塗(いそくさぬり)」という技法を創りだし、万治年間(1658~1660年)に「卵殻金銀箔塗押(らんかくきんぎんぱくぬりおし)」の技法を完成させました。 時の藩主酒井忠勝がこれを『若狭塗』と命名。小
若狭めのう細工 1 / 1 3 現在の福井県若狭の里、遠敷(おにゅう)は、若狭一の神社を頂く土地で、奈良時代に玉を信仰する鰐族(わにぞく)という海民族が、この地に来たとき、神社の前に鰐街道を作り、そこで玉を作ることを仕事としたのが、始まりと言われています。 江戸時代中期には、めのう原石を焼いて美しい色を出す技法が確立されました。19世紀になると、さらに工芸彫刻の技術が開発され、現在に至っています。
philosophy
・自然と調和した先人の技を今に受け継ぐものづくり
福井7人のサムライが活動している福井県は
京都、小京都と言われる金沢に隣接します。
自然が豊かな地域で厳しい環境にも耐えてきた
人々の精神はモノづくりの精神が根付いています。
動画は【若狭メノウ細工→メガネ材料商社→若狭塗→越前タンス→越前焼】と作業風景が流れます。
福井7人の工芸サムライとは
福井には国指定の伝統的工芸品が7つあります。
・越前漆器 1500年前
・越前和紙 1500年前
・越前焼 700年前
・越前打刃物 600年前
・越前タンス 200年前
・若狭塗 400年前
・若狭めのう細工 200年前
※鯖江の「メガネ」は違います。
北陸は文化が伝わってきた朝鮮半島から近く、
朝鮮貿易の窓口だったと言われています。
文化、モノづくり、商品、食糧、宗教など色んな文化が日本に伝わりました。
我々が活動している福井県は京都に近く、
海産物と一緒に文化も、伝統工芸品も京都に運ばれました。
福井の伝統工芸は食器、紙、刃物をはじめ生活用品が多いのが特徴です。
モノづくりの産地として1500年前から商業を行ってきましたが、
100円ショップなど中国産の安い商品が日本に出回りにつれて90年代をピークに生産額、販売額は右肩下がりになっていきます。
私たちは7つの産地の有志の職人が集まり、福井の伝統工芸の技術や文化を次世代に
残すべく活動しています。
伝統工芸の商品開発、伝統工芸の技術を使った商品など2014年から実績を積んできました。
福井県の伝統工芸の技術を用いれば作れないものはないと自負しております。
お気軽に問合せください。